アントニオ猪木さんの人生から現代の私たちが学ぶ3つのこと

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先日のニュースにてご存じの通り、2022年10月1日プロレス界のスーパースター、アントニオ猪木さんが79歳で死去されました。当サイトからご冥福をお祈り申し上げます。

この度のニュースで、多くの方が初耳だったと思われるのが猪木さんの過去。

私個人としても正直驚きましたし、猪木さんのことは言うまでもなく認識していましたが、それはプロレスラーとしての猪木さん、そしてその後の政治家として猪木さんでした。

てっきり幼いころから体格が良くて、自然な流れでプロレスラーの道へ進んでいった、そんな思い込みというかイメージというか勝手な認識をしていましたが、実際はそうではなかったことに驚きました。

•少年時代はブラジルで暮らしていた
•コーヒー農園で奴隷のように働いていた
•ブラジルでプロレスのスカウトを受けた

それでは、一つずつみていきましょう。

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なんと少年時代はブラジルで暮らしていた

個人的にすごく驚きました。

アントニオ猪木さんは神奈川県横浜市の出身。

どんな経緯からブラジルで暮らすようになったのか、大体のイメージだと”プロレス修行の目的”で現地で暮らすようになった、というのが多くのイメージだと思われますが、実際はそうではなく、ブラジル暮らし決定時点ではアントニオ猪木さんはプロレスラーではありませんし、その後の経緯を踏まえると、おそらくまだプロレス競技そもそもに出会っていなかった時期であります。

では、何故ブラジルで暮らすことになったのか。

それは、生活のためでした。

アントニオ猪木さんがちょうど10歳くらいの社会情勢として、エネルギー資源がそれまで主流だった石炭から”石油”へと移行していく時代背景にあり、アントニオ猪木の両親は石炭の問屋を営んでいたようですが倒産に追い込まれる事態となりました。

(お父さんはアントニオ猪木さんが5歳の時に死去されています)

このときの家族構成は、

・母

・おじいさん

・兄弟

でした。

生活困窮となった一家は、当時日本政府が国の政策として推し進めていた”ブラジル移住”によって、生活困窮から脱することができるかもしれないという希望をもち、ブラジルで暮らすことを決断します。

コーヒー農園で働く

移住後は、コーヒー農園で働くこととなったアントニオ猪木さんとその一家。

しかし、労働環境は過酷なものだったそうで、それはまるで奴隷のようなものだったようです。

労働時間は、朝の5時から夕方の5時。

場所はサンパウロ。

契約は一年半で途中の契約破棄は許されない状況だったようで、この期間は大変な時期だったと察することができます。

現地でスカウトを受けプロレス界へ

ブラジルのサンパウロにてコーヒー農園の労働者として働くアントニオ猪木さん。

そして、運命的と出会いはこの地で起きました。

当時、プロレスの遠征中だった力道山の目に留まったのです。

その頃の猪木さんは、その後のプロレスラーとしての姿とはうってかわり、運動神経はそこまで良いほうではなかったようで、当時のあだ名は鈍感の文字をとった「ドン」だったとか。

そうはいっても、運動神経悪かった説は猪木さんが何歳の時までの話かは定かではありませんが、ブラジル時代では現地で陸上競技者として活躍し、砲丸投げで優勝した実績も持ち合わせています。

そんなことから、猪木さんは走るような運動神経よりかも、パワー系の運動神経に長けていた人物だったことは、その後プロレスラーとしての猪木さん、そして砲丸投げで優勝した少年時代からみても分かりますね。

まとめ

ここまでずらっとアントニオ猪木さんがプロレスラーになるまでの経緯について書き出しました。

以降、日本でプロレスラーとして活躍していくアントニオ猪木さんについては、多くの方が周知されているとおり私がわざわざ伝えるまでもなく、日本のプロレス界の劇的に発展させた立役者、人望が厚く素晴らしい方でした。

引退後は政治家としても活躍し、まさにこれが壮大な人生といえ、後世に語り継ぐべき人物ではないでしょうか。

なにより、アントニオ猪木さんご自身がそう感じているとお察しできます。

では、ここからタイトル回収をしていきます。

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最後までお読みいただきありがとうございました。

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